2008年2月25日月曜日

レトリックと人生

レイコフとジョンソンの「レトリックと人生」
をパラパラと眺めてみる。



形式文法や言語哲学の入門書をパラパラと眺めていても、
そこでなされる形式化と実際に言語を運用する際の意味の伝達
との間に、
かなりの乖離がある。
しなやかで弾力性のある意味伝達を、
自然言語がいかなる経緯によって獲得したのか、
また、
プログラミング言語は、仕様を含めてそのようなしなやかさを獲得できるのか、
という点に興味がわく。

また、
レトリックが一部の特異な使用例から、一般的なイディオムとなって意味の解析がスルーされるようになる機構、
についても、興味がわく。

フランス語の歴史を見てみると、
もともとラテン語には存在しなかった冠詞が、
発音の変化による活用の区別の不明瞭化に伴い、
発達し、
また、主語人称代名詞も同様の理由で発達してきた。
時制については、時間の構造をより精密に捉えるために、
複合時制が発達し、単純過去、前過去といった時制の使用が縮小されていった。
こうした言語の潮流を記述するためには、
使用方法の揺らぎ、
使用される場所の距離による相関、
相転移、
アトラクター、
といった概念をどのように用いることが出来るだろうか?

また、
話し言葉と書き言葉で必然的に異なる変化への抵抗力、
それに伴う上記の言語変化に関するパラメータの遅速、
といった部分を記述するには、
どのようにすればよいのだろうか?

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