2007年11月4日日曜日

松本にて

子供の頃に、戦争は悲惨で人がたくさん死んだ、
と第2次世界大戦のイメージを植えつけられていたために、
戦国時代というものを多少誤解している感がある。
1500年から1700年にかけて、
日本は大開墾時代で、
人口は増大していた。
兵士が戦場で兵糧を消費して、田畑を荒しても、
それを補って余りある生産増大を達成していた時代、
と認識する必要がある。

だからこそ、
各地に大規模な城郭を建造することが可能だった。

松本城は典型的な平城で、
大手門枡形から眺めるお堀越しの天守は非常に優雅だが、
お堀は極めて浅い。
もともと信濃の国は小豪族が寄り集まっていて、それほど大規模な勢力とはなり得なかったから、
桃山時代における松本城の役割は、
関東の徳川家康への備え、
中央政府の威信の掲揚、
であったのだろう。
徳川家康への押さえとして、石川数正を配置した豊臣秀吉の方針にも苦笑せざるを得ないが、
石川家は端から徳川家に対してそれほど強硬な圧力をかける気はなく、
だから、あまり戦時の城を意識させない優美なお城となったのだろう。

石川家はすぐに途絶え、
その後は変遷を遂げながらも戸田家のものとなる。
江戸時代後期の小藩の貧窮は日暮硯に詳しいが、
松本は小藩ながら、実情は15万石相当の裕福な藩であったそうだ。

幕末を迎え、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、
"藩内180ヶ寺の内140ヶ寺が破壊された。"
とある。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%B8%82)

焼け爛れた仏像、光背を一部切り取ってかくまわれた仏像、
など、生々しい姿を松本市美術館で拝見することが出来たのは幸運だった。

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