文明の海洋史観 序の部分の記載事項について、ノート
* 「そこで1450-1640年という時期に注目してみよう。近代世界システムの成立時期は、日本では近世江戸社会の成立時期にあたっている」
*「近世成立期のヨーロッパは大航海時代であるが、同じ頃、日本人も海外に雄飛していた。進出の舞台はアジアの海である。日本人はそこを天竺・南蛮と呼び、ヨーロッパ人は東インドと呼んだ。両者は近世成立期の海洋アジアという同じ時空を共有していたのである。注目すべきことは、日本と海洋アジアの関係と、ヨーロッパと海洋アジアとの関係とが酷似していたことである。」
日本が歴史上、島国として孤立していたのではなく、
海洋志向の時代と内地志向の時代を交互に繰り返していた、という認識が必要になる。
この点は、転の章に記載がある。
では、何が海洋志向に向かわせ、何が内地志向に向かわせたのか?
*「日本人とヨーロッパ人とは近世成立期に同じ時空を経験した。それにもかかわらず、だれしも不思議に思うのは、その後の歴史の歩みが正反対になったことである。日本人は活動の舞台を国内に閉じ、ヨーロッパ人は活動の舞台を世界大に広げた。一方は内向き志向に、他方は外向き志向になった。この対照的な相違はなぜ生じたのであろうか?ここに日本の江戸社会の謎を解く鍵があるように思われる。」
この後、共通点と相違点が列挙されている。ここで鍵になるのは生産革命、という言葉であり、
とくに日本の生産革命として現れる"勤勉革命"という用語である。
共通点-1)日本、ヨーロッパとも旧アジア文明から見て周辺に位置する後進地域であり、貿易赤字を持っていた。
共通点-2)19世紀に貿易赤字を解消。ヨーロッパは大西洋三角貿易により、日本は国内で自給自足の方法をとることにより。
共通点-3)貿易赤字の解消のために生産革命を遂げた。ヨーロッパは産業革命を、日本は勤勉革命を遂げた。
共通点-4)旧アジア文明への依存状態から脱却して両者とも自立を遂げた。
相違点-1)ヨーロッパにはアメリカ大陸があったが日本には国内しかなかった。アジアと関係をもったときの土地と労働のありかたが対照的であった。
相違点-2)生産革命の方法が、ヨーロッパの場合は、人口が希少なので、資本集約的方法をとって労働の生産性を上げた。それに対し、日本では徹底的に資本の節約がはかられた。
相違点-3)アジアとの離脱という点で、ヨーロッパは環インド洋にひろがるイスラム文明圏からの自立であり、日本は環シナ海にひろがる中国文明圏からの自立であった。
相違点-4)天然資源に対する態度の相違。ヨーロッパにはアメリカ大陸というフロンティアがあり資源は希少ではなかった。一方、日本では、資本を節約し、資源をリサイクルすることに工夫をこらす必要があった。
*「近世江戸社会と近代世界システムとは、人類史上、生産革命によって、経済社会を形成して脱亜を遂げたという点において、対等の文明史的意義を有するものである。」
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