2007年8月26日日曜日

日本の歴史ノートその1

網野善彦
日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫) (文庫)

(ttp://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8A%E3%81%99-%E5%85%A8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%B6%B2%E9%87%8E-%E5%96%84%E5%BD%A6/dp/4480089292)
のなかの、
海からみた日本列島、
の章に関するノート。

「 まず、海によって周囲から隔てられた島々というのは、ことの一面のみをとらえた見方です。たしかに海が人と人とを隔てる障壁の役割をすることのあるのは、もとより事実ですが、しかし、それは海の一面で、海は逆に人と人とを結ぶ柔軟な交通路として、きわめて重要な役割を果たしていたことも間違いありません。」

*縄文時代

「 いずれにせよ、いままでわれわれが教えられてきたように、縄文文化が「島国」の中に孤立した文化であったとする見方は、完全に誤りであることが明らかになってきました。」
「 縄文時代をそのように多様な生業に支えられ、広域的なつながりを持った社会と考えておかないと、その後の文化、社会を正確に理解することはできないと思います。」

*弥生時代

「 弥生文化は、本来海をこえてきた文化であり、海や川を通じて広がったことは明らかです。ですから弥生文化をもたらした人々は、元来、海に深いかかわりがあり、船を駆使するすぐれた航海の技術をもった人々であったと考えられます。また、弥生時代になっても大きな貝塚があるわけですから、漁撈、製塩、狩猟、採集も依然として行われているわけですし、弥生時代は、はじめから海を視野に入れないと、理解しがたい文化であることも強調しておく必要があると思います。」

「 このように、日本列島の社会は当初から公益を行うことによってはじめて成り立ちうる社会だった、厳密に考えれば「自給自足」の社会など、最初から考えがたいといってよいと私は思います。」
この文章は、鎖国時に自給自足体制を整えていたと考えられる点と非常に対比的であると思う。
稲作が伝達して、弥生時代の人口は爆発的に増大したと考えられているが、
海、川を通じた交易の必要性が失われたわけではない。むしろ、稲作に不適な土地が大部分を占めている地域は、それまでの縄文文化による暮らしと、交易による暮らしとが混在していたのだろう。
では、市場はいかなる形であったのか?

「 さらに、倭人伝の中には、「国々に市あり。有無を交易す。」という記事が出てきます。この「国」はのちの郡の程度、あるいはもう少し小さな単位だと考えられますが、すでにそうした地域に市庭が立っているわけで、交易の場がいかに重要であったかがよくわかります。こうした市庭なしに社会は成り立ちえなかったのです。」
「 山民と海民との間の分業は、縄文期には成立しており、弥生時代には平地民との間にも分業が確立したと考えられますから、縄文期の塩や魚貝、あるいは石器の原料などの交易を媒介としていた原初的な商業活動は、弥生期以降さらに活発かつ広域的になったと考えられます。まだ、専業の商人ではなく、生産者が広い地域を動いて交易に従事するのが普通だったと思いますが、それを支えたこの時期の交通の基本が海、川による交通であったことは、遺跡、遺物の分布をみてもはっきりとわかります。」

交易によって、文化が伝播し均質化されてくるのだとしても、
地理的な障壁による伝達阻害は大きく、東部と西部との間の文化的ギャップはなかなか埋まっていかない。この点について、
「 これまでの日本文化論・日本社会論は、朝鮮半島、中国大陸から主として北九州を窓口として先進的な文化、技術が入ってきて、それが瀬戸内海から近畿に入り、西から「後進的」な東に広がっていったとされ、こうしたあり方が日本列島の社会のその後の歩みに決定的な影響をあたえたととらえてきたのですが、この見方を徹底的にあたらめる必要があります。北東アジアからサハリン・北海道を経て東北・関東へ、あるいは日本海を横断して北陸、山陰へという、西からの文化とは異質な北からの文化の流入路のあったことに注目する必要があり、この異質な東と西の交流の中で、社会・文化のあり方を総合的にとらえる必要があります。」

* 古墳時代

「 とくに製鉄と馬が、この時期に流入した文化の中で一番大きな意味を持っていたといわれており、「騎馬民族」の渡来が問題になるのは、まさにこの時期です。」
「 事実、弥生時代から古墳時代を通じて、相当の数の人が大陸・半島から列島西部に流入したようで、それも一万、二万の程度ではなく、長い時間、約一千年の間に数十万人から百万人以上といってもよいほど多くの人がわたってきたと考えなければ理解できないことが多いと、埴原和郎さんは強調されています。」
こうした人口増大、体制の整備のもと弥生時代から古墳時代にかけて交易はさらに緊密なものとなった。
「 しかしそうしたヤマトと諸地域との関係だけでなく、さきほどもふれた諸地域の間の独自の交易が、広域的に行われていたことを決して見落としてはなりません。」
ではどのようなルートがあったか?
「 しかもヤマトの王権は朝鮮半島の百済と手を結び、磐井は新羅と同盟を結んで対立したわけで、この戦争も日本列島内だけにとどまっていません。列島内の王権の対立が朝鮮半島の王権の対立と結びつきながら戦争が行われているのです。これは、瀬戸内海から北九州を経て、朝鮮半島、中国大陸への緊密な交通ルートのあることを前提にしなくては理解できないことです。」
「 また日本海についても、山陰から北陸、東北、北海道に向かう海上交通のルートが、この時期にはきわめて活発になっていたと思われます。」
「 また太平洋側も、海の難所が多いといわれますが、意外なほど早くから海上交通が活発だったのです。」
「 このように、海で四方にひらかれた日本列島の社会は、つねに周囲の地域との交流関係の中で考えることが必要なのです。」

交易の手段については、
「 原始的な貨幣はこの時期にはっきりと姿を見せているのです。もちろん多様な物品貨幣を、交換手段、支払手段、価値尺度として使うということですが、これを貨幣経済ということも決して無理ではないと思います。
 貨幣の発生についてはいろいろな議論がありますが、この時期、交換手段として使われたと推定できる物品は、列島西部では主として米だと思いますし、列島東部では布と絹がおもに用いられたと思います。」
「 そのほか、塩、鉄、牛馬も、貨幣の機能を持ったことがあります。」

* 「日本国」の誕生
「 さて、七世紀後半から八世紀初頭にかけて、ヤマトといわれたのちの畿内を中心として、東北と、南九州をのぞいた本州、四国、九州を支配下に入れた本格的な国家が、初めて列島に成立することになります。」
「 実際、この国家、「日本国」が確立すると、これまでとは、ようすがガラッと変わってきます。この国家の支配層が、とくに六世紀以降の中国大陸や朝鮮半島との交流を前提にして、初めて本格的な「文明」を体系的に日本列島に持ち込みます。中国大陸に成立した大帝国、唐の制度を本格的に導入したのです。
 当時の日本列島の社会は、まだかなり「未開」であり、逆に柔軟な社会だったと思うのですが、そこにきわめて硬質な中国大陸の文明的制度が受けいれられることになりました。」

「 ...とくに注意すべきは、この国家の交通体系が陸上交通を基本にしていることで、都を中心にして幅十数メートルの舗装された道路をできるだけ真っ直ぐにつくっているのです。
 東海、東山、北陸道は東に、山陰、山陽道が西に、南海道が南に、都から四方にそうした直線的な道路がつくられ、それを軸に広域的な地方制度としての道ができているわけです。九州だけは大宰府を中心にした西海道になっていますが、このような直線的な道を基盤にした陸上交通が、この国家の交通の基本になります。」

陸上輸送の重視に関しては、明治期の徹底した鉄道輸送の普及と対比してみると面白い。
日本、という国が建国当初において外圧にさらされて、富国強兵に努める必要があった、
という背景が明治期と類似している。
一方で、
「 そして、この国家の諸制度の基本にあるのは農本主義で、「農は天下の本」、「農は国の本」ということがくり返し強調されています。水田を基礎にした租税制度をとっている以上、これは当然のことで、このような儒教を背景にした農本主義的な文明が、畿内を中心に西日本を主要な基盤とするこの国家の制度を通して、日本列島の社会に対して、強い影響をおよぼすようになってきます。」
農本主義と聞いてまっさきに思い浮かべるのが、江戸時代の米に基盤を置いた農本主義であるが、
この時代の農本主義は国家としての体裁を取り繕うための擬態だったのだろうか?
建国当時、日本は、白村江の戦いで負けた実質的な敗戦国であり、
文化は流入しながらも、朝鮮、中国との国交を一からやり直している。
農が当時の最新技術であったと理解すれば、この時代の農本主義は富国政策、ということになるのだろうか?

「 ...八、九世紀の日本国の範囲は、北は東北北部を境界地帯としており、南は喜界島までと考えられます。
 その範囲の日本列島の社会にたいして、この国家が実施した諸制度はみな、八世紀にはいるとすぐにあやしくなりはじめ、とくに陸上交通中心の交通制度の無理がいちはやく表面化し、八世紀前半には、重いものを運ぶための川と海の交通が公的に認められはじめます。」
「 また、この国家ができるころは、遣唐使などによる中国大陸との国家間の交流が活発に行われていましたが、これも九世紀になると間遠になり、むしろ国家とかかわらない列島と大陸、半島との交流がふたたび表に出てきます。」

「 さて九世紀から十世紀になりますと、事態はさらに大きく変わってしまいます。というのは、さきの国家の制度は、形式は残っていますが、九世紀にはほとんど実質がなくなり、十世紀前半には、それ以前とはまったく異質な制度になってしまったからです。」

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