船旅というものに憧れていた。
学生時代に下宿していた大家さんは、
戦時中に商船学校を出て、戦後ながらく大型船の船長をしていた経歴の持ち主で、
日本丸の華麗さについて、とか、
帆船のマストの数について、
等、おそらくマニアの人であれば喜ぶような話を、食事時にしてくれた。
いかんせん、その当時の私にとって、
船、とは19世紀までの交通機関でありすでに飛行機に取って代わられてしまった、
という認識であったから、話半分で受け流してしまい、
細かなところはまったく記憶に残っていない。
十年ほど前のことだったか、
天保山に帆船が集合した時には、
大家さん、
帆船は見る価値あるから行ってきたほうがいいよ、
と頻りに勧めてくれた。
それもそのはず、その博覧会の理事長的な役目を彼はしていて、
集客にも気を配っていたのだろう。
実際に行ってみたものの、やはり、港に停泊している船に載っただけでは、正直良さがわからなかった。
その後社会人となり、飛行機には出張でお世話になるようになったけれど、
ホイールウォッチングや遊覧船を除いて、
まともな船旅のための船に載る機会はついぞなかった。
風景が一変したのは、辻邦夫の「パリの手記」の最初のほうにある、
日本からフランスへ向けての、東シナ海からマラッカ海峡を通って、
インド、アラビア、地中海をめぐる船旅
の文章を読んだときだった。
ぎらぎらと照りつける太陽の下、見渡す限りの大海原を颯爽と走る船、
その船の中で時間を忘れて退屈に身をゆだねる旅、
に憧れを抱いたのだった。
とはいえ、お金も時間もなかなかままならないままに時間だけがすぎていき、
ようやくこの夏、幾許かの時間が取れた。
時間は取れても、ない袖はふれないので、
なるべく近く、かつ、太平洋の船旅を実感しようと、
候補を小笠原と八丈島に絞った。
小笠原は船で25時間、
八丈島は11時間。
船酔いの懸念と秤にかけた結果、
八丈島への旅行を決意した。
大家さんは大分前に泉下の客となっている。
竹芝桟橋から客船かめりあ丸に乗り込み、
出向の銅鑼の音を聞いた時、
単調な一音が大家さんへの鎮魂歌のように思えた。
0 件のコメント:
コメントを投稿