八丈島行きの船は22:30に竹芝桟橋を出港し、翌日の9:30に八丈島底土港に到着する。
出港後しばらくすると、すっぽりと暮れた夏の夜の海を、
お台場から羽田沖を通り東京湾を進み、
左手に房総半島、右手に三浦半島の灯りを見ながら、
太平洋へと進んでいく。
三浦半島の灯台を過ぎると、右手には暗闇が広がる。
デッキから潮風を受けて眺めてみると、
三浦半島と房総半島の距離の近さに改めて気づく。
何故房総半島の先が上総で房総半島の根元が下総なのか、納得がいく。
そして、武蔵野国がもともと東山道に属していたにもかかわらず、
何故、総州が東海道に属していたのか、にも。
濃尾平野にせよ、隅田川河口にせよ、
大河が三角州を形作る湿地帯は、近世に至るまで不毛の地であり、
交通路は大河河口を避けての船旅、が一般的であったのだ。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93)
房総半島の灯りが見えなくなると、
漆黒の闇の中を船は進んでいく。
東京湾内よりも揺れが激しくなったような気がした。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/hfradar/kairyu_inform.cgi?mode=anime&which=274,1
をみてみると、潮の流れは一日毎にめまぐるしく変わっている。
伊豆大島から三宅島までは、それでも、船を漕ぎ出してたどり着けるような気もするが、
その先、太平洋に乗り出すには、どれほどの勇気を要したことだろうか?
しばしの仮眠の後、
午前4:30に再びデッキに出てみた。
未だ東の空は暗かった。
いくつかの星が輝いているが、それがどの星座に属するものなのか、
基本的な知識が忘却の彼方にあって判別できなかった。
多分あれは北斗七星なのだろうけど、
でもそうすると北がとんでもない方向になるな、と、
記憶の断片と現実がどうにも噛み合わなかった。
そういえば、シューメーカーレビ彗星が近づいたときにも、
大家さんが、めったにない機会だから見ておきなさい、
と双眼鏡を持ってきて勧めてくれた。
そのときに星座の見方をいくつも教えてくれた気もするけれど、
使わぬ知識は消えゆくばかり。
10分ほどたつとわずかずつに明るくなっていき、
やがて雲間から赤い光が見え始めた。
日の出、だ。
東の空の雲は水平線のちょっと上を薄く延びているばかりで、
遮るもののない一直線の海面から浮き上がってくる太陽を目の当たりに見ることが出来た。
自分のほうに向かって太陽の光が海面を照らし、
放射状に海面が輝く様を仔細に眺めることが出来た。
一生に一度見られるかどうかの贅沢な日の出だった。
インド洋が西に広がるインドで西方浄土という考え方が生まれたのは納得できる。
太平洋が東に広がる日本が日ノ本という国名を外圧に抗する為であろうとつけたのも、
納得がいく。
だが、ちょっと太陽の沖合いに出れば、実際のところは周囲は水平線ばかり。
船乗りたちは命名には携わってはいなかったようだ。
補陀落渡海は熊野や足摺岬での風習だったようだが、
相模や下総にはそのような風習はなかったようだ。
それどころか、日光の二荒山が補陀落山と目されてきた。
どんどん高くなっている太陽とともにデッキの暑さは増していった。
潮風が心地よいのだが、
べっとりとした潮気を含んだ空気と、遮るもののない太陽光に、
亜熱帯の片鱗を感じた。
緯度でいえば八丈島は四国とほぼ同じでそれほど南にあるわけではない。
だからかめりあ丸は瀬戸内海を航海しているのとほぼ同程度の緯度を航海しているだが、
おそらく瀬戸内海クルーズではこれほどの太平洋の熱気を感じることはないだろう。
いつか比較をしてみたいものだ。
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