2007年8月26日日曜日

八丈島旅行その7

8/20 八丈島2日目。

自転車で八重根に向かった。
歴史資料館、ビジターセンター、植物園、
と巡る予定で、坂を必死に昇っていった。
民宿のある辺りは海の近くだから、海抜0メートル。
八重根への道の途中で海抜30メートルとか50メートルとかの標識が結構出ていたので、
かなりのアップダウンがあり、距離はたいしたことないのに脚がぱんぱんになった。

八重根は底土の反対側、島の西側の港で、
テトラポットに容赦なく波が打ち付けてきていた。
波の様子を眺めていると、大体一分に一回くらいの割合で高い波が押し寄せてきて、
その白い波が引いていくと、セルリアンブルーの綺麗な水の色が波間に見えた。

http://www.agri.pref.kanagawa.jp/SUISOKEN/Kaikyozu/1to3ken.asp
をみると、黒潮の流れが八丈島の南側を流れている。
さらに、
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/qboc/2007cal/ocf/ocf200734.html
をみると、
黒潮は南西諸島から四国、和歌山の沖合いを流れた後に八丈島の沖合いを流れている。
補陀落渡海を目指した行者のなかには沖縄にたどり着いたものもいた由だが、
あるいは、黒潮に乗って八丈島に流されたものもいたのかもしれない。
八丈島の西側は、黒潮ルートのいわば玄関口なのだろうか?

そんなことを考えつつ歴史資料館を探していると、
どうやら迷ってしまったらしかった。
よくわからないので、近くのパン屋さんで栄養補給、兼、道を確認。
無事歴史資料館に辿りついた。

およそ離島にわざわざ人がやってくるためには、
a)満ち足りた人々の征服
b)食いつぶした集団の開拓
c)漂着
d)特産品を基にした商業目的
のどれかの理由が必要だろうし、
その後継続して離島に住み続けるためには、
-水
-最低限の食料
が必要だろうし、
その中で文化が成熟するためには、
最低限の他地域との交流が必要だろう。

果たして、八丈島の歴史はどのようなものなのだろうか、と
いろいろな展示物を見てみた。
http://ao.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm
にあるように、先史時代、八丈島の西側に定住者がいたようだ。
伊豆諸島では神津島が石器で使用される黒曜石の採掘場として、
縄文時代からすでに本土と交流があったようだが、
八丈島にもこの黒曜石の石器があり、本土もしくは北側の島々からの移住者が、
八丈島で生活をしていた、とのこと。

一体何が人々を八丈島にいざなったのだろうか?
八丈富士があげていた噴煙が目印となって、
まだ溶岩の流れている島に上陸してきたのだろうか?

先ほどのページの倉輪人の説明によると、
最終的には、ほんの数人ほどの集団が、ここで生活し、そして食いつぶしたのか何らかの理由で離れていった。
先史時代でも人間の時間感覚はそうはかわらないだろう。
今、我々は先史時代を1000年単位、ひどいときには10000年単位で区切ったりするが、
個々の寿命は多分10-20才位で、10年一昔どころではない時代。
人口が減少していく中、彼らは何年ほどここで耐えて生活していたのだろうか?
家族として代替わりができたのだろうか、それとも男だけがここで出稼ぎのようにして生活していたのだろうか?

http://dandoweb.com/backno/970619.htm
をみると、縄文時代の推計人口が早期2万人、中期26万人、末期7万人
と大きく変動している、と予測されている。
八丈島も、この人口変化に連動するようにして、縄文末期には無人島と成り果ててしまったのだろうか?

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