八丈島の流人の歴史は、
宇喜多秀家が流されたことに始まった。
以来江戸時代を通じて、多くの流刑者が島に流され、
ある者は安らかな生涯を終えて八丈島の土と成り、
ある者は騒擾の中に処分され、
ある者は島からの脱出を試み黒潮の流れに飲まれた。
総数2000弱。
遠島は、死罪に次ぐ重罪であって、流刑地の中でも八丈島は遠方にあった。
遠島が処罰であることの最大の証左は、
流刑者は一切の支給もなく、
島で自給自足の生活を自らの才覚で行わなければならない点にあった。
流刑者の大まかな時系列ごとの分類によると、
江戸初期-中期は、主として政治犯、思想犯が少数流されてくる傾向にあり、
中期-後期においては、雑多な犯罪人が多数流されてきた。
これは、
サツマイモの増産による食糧事情の向上、
社会不安による犯罪者の増大とその流刑地不足
によるものと思われる。
流刑者の中には、八丈島で所帯を持ち、その子孫が現在に至っていることも数多いようだ。
ただし、犯罪者ということで公的な婚姻は認められておらず、
万が一恩赦で本土に戻った場合など、問題も生じたようだ。
果たして自分がここに流されてきたとしたら、
一体どのようにして生き延びられたのだろうか?
仮に大工であれば、島の建物の修繕をして日々の糧を得ることもできよう、
農学者であれば、島にあった作物の栽培を広めることもできよう。
しかし、手に何の職もなく、食いつぶして田舎から江戸に出てきたものの、
結局島流しの身になったものであれば、
それほどな知識も技術も持ち合わせていなかっただろう。
田畑を持つわけでもなく、漁業にいそしむこともできず、
ただ人の良い島人の助けを待つ毎日。
飢饉でも起こればたちまち餓死せざるをえない弱者の境遇。
救いのない毎日の中で、
果たして贖罪などできたのだろうか?
それとも、ひたすら赦免を待ち侘びて、気でも狂わしてしまったであろうか?
明治初頭、江戸時代の島流しの罪がすべて赦免され、
八丈島の流人もほとんどが赦された。
その際、人口8000人のうち150人近い流人がいたという。
島はそれだけの人数を迎え、維持できるだけの体力を持ち合わせていたのだった。
そして、それだけの犯罪者を抱えながら社会秩序が維持できるだけの強権を
島の支配者層は保持していたのだった。
昨日見た、海岸に打ち棄てられていた船は、
流人たちが脱走を試みて、本土目指して漕ぎ出そうとした船だった。
江戸時代を通じて、八丈島からの脱走の成功例はわずかに一つ。
それも、本州で捕縛され処刑されてしまった。
脱走の事実を基にして映画も作られている。(http://runin.jp/index2.html)
ビジターセンターを出て植物園を回っている間も、
流人という生々しい事実の記録がしばらく頭から離れなかった。
東京にも少年院や刑務所は郊外に存在して、その場所も認知されているのにもかかわらず、
島流し、という語幹は強い。
さらに、遠島の理由で、生類憐みの令違反といったものが散見されていたため、
人生の紆余曲折というものに、なおさら思いをはせることとなった。
植物園から戻ると、
昼ごはんに食堂で甲子園の放送を見ながら醤油味のラーメンを食べ、
島一番のスーパーで水着を買い、
民宿近くの神湊で海水浴をした。
漁船が平穏に入港する傍で、青空を仰ぎ波間に浮かんだ。
体が冷えるとB&Bに行き、ホットコーヒーを飲み、
ヤギのヤギオ君と戯れた。
極めて平和な、観光客の日常。
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