先の八丈島の歴史のページ(http://ao.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm)
には、
「 それほど時間を置かず、第二回目の八重根人が渡島する。やはり伊豆半島、神奈川県海岸部の古墳時代人(1,500年前頃) である。彼らはこの八重根集落に本格的な「鰹加工工場」を建設し、地元の粘土を使用して多量の煮沸用鉢形土器(八重根式とも呼ばれる)を製作した。炉跡も各種考案され、100基近い炉から煙が立ち上がっていた。第三回目の八重根人の渡島は、奈良・平安時代である。引き続き鰹加工工場を運営している(第2文化層) 。
中世以降の八丈島は、相模の国(小田原北条氏)の支配地として、国地の封建社会に組み込まれていく。もはや鰹加工工場ではなく、貢納物としての絹織物(黄八丈)生産地として重要な地位を与えられる島になっていた(第 3文化層) 。」
「 平安時代に近畿地方の伊勢湾あたりから、八丈島に渡島した製塩集団がいた。彼らは八丈小島が前面に見える、西山(八丈富士)側海岸に集落を形成した。この場所は火の潟と呼ばれ、やや緩やかな山麓部に独立小丘が海岸に張り出し、この平坦部に多くの製塩施設が構築されている。製塩用の土器は地元八丈島で製作され、海岸から塩水を汲み上げてはこの土器に入れて、地炉で煮ることで塩分を凝縮し塩を生産していた。」
という二つのコメントがある。
稲作に不適な八丈島において、人々の暮らしは加工物の交易に頼っていた。
歴史資料館には、黄八丈や製塩など加工物のための機材の展示もなされていた。
古代から中世にかけての八丈島の歴史について、
文章としての説明は極めて少なかった。
八丈島の、島としての歴史が物語られるのは、
江戸時代に、島流しの地となってからのことが多い。
これは、江戸時代以降のほうが資料が豊富である、ということと、
流人という人間ドラマが興味を引きやすかったからなのだろう。
八丈島の流人については、歴史資料館の次に訪れたビジターセンターに、
八丈島流人銘々伝(http://www.kt.rim.or.jp/~dai-1/shinkan/shokai/85.html)
がおいてあり、閲覧させていただいた。
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