2007年8月30日木曜日

八丈島旅行その11

8/22 旅行最終日

8:00 民宿をでてレンタサイクルを返した。
少し早いが港で船を待つ。
入港は9:30くらいで乗船は10:00くらいだから大分時間があった。
港では、
別の作業船が接岸していて、
大きなクレーンが船からコンテナを運び出していた。
クレーンが動くたび船が左右に大きく揺れていた。
フォークリフトがコンクリの塊のようななにかを積み込んでいた。
遮るもののない港の陽射しの中で、私は水を飲んでいた。

かめりあ丸が着いて乗客が降りてくると、来たときと同じ光景が繰り返されていた。
送迎の車が何台かやってきて、旅人が四散していった。
小崎荘のおばあさんはやっぱり一番最後に遅れてやってきて、
たった一人の旅行者を自動車に乗せていた。
ちがったのは、助手席から小さな女の子が手を振っていたことだった。
「手を振っておあげ」
おばあさんが女の子に言っているのが聞こえた。
お孫さんなのかもしれなかった。
そういえば、前日、おばあさんが嬉しそうにオナガダイを捌いていて、
てっきりご馳走してくれるのかと思っていたら、ついぞ食卓にのぼることはなかったが、
理由がわかった。
そうしておばあさんが行ってしまうと、
島を出る旅行者が疲れた様子で集まってきた。

10:30 出港。
行きが11時間ということは帰りも11時間ということで、
夕陽を拝むために今のうちに仮眠を取っておこうと、座席で眠った。
行きが消灯であったのに対し、帰りは昼であるせいか、
船のテレビが大声でニュースを読み上げていた。
サブプライムローン問題、東証株価、為替、
別世界の出来事が次々と流れてきた。

今回は御蔵島にも無事接岸。
行きに出会った女の子はいないか、と様子を伺うと、
乗ってきていた。
後で聞いたところによると、行きは八丈島からの船も御蔵島に接岸できず、
三宅島から漁船で御蔵島にたどり着いたとのこと。
御蔵島ではダイビングといるかウォッチングを楽しんだので、
次に島に来るなら御蔵島に是非、
と言っていた。
学生生活を十二分に楽しんでいるようで、正直うらやましかった。

17:00 右手に房総半島の影がちらほらと見え始め、
三浦半島から房総半島へと至る船の通路なのか、
東京湾の航路なのか、
何艘もの船が連なって移動していた。
やがて、かめりあ丸もその船群の一員となり、
静々と東京湾内へ入っていった。
左手に太陽は沈みかけていたが、あいにく西の空は雲に厚く覆われていて、
日没は見えそうになかった。

21:00 竹芝桟橋に船は無事接岸。
浜松町から東京駅、さらに中央線で我が家へと向かい、旅は終わった。

船旅を存分に味わえたいい旅だった。
ただ、八丈島には家族連れが多く、寂しかったのは否めなかった。
今度この島に来るときは、家族が一緒にいてほしいものだ。

歴史観についてその2

歴史が科学である以前、
その目的は、ある集団における政体、王権の正当化、といったものであった。
神話という形で、祖先の系統の確認と、宇宙観、というものが提示され、
集団が階層化するにつれて、神話は取捨選択され統合された。

文化形態の異なる集団の接触の結果、
集団の統合のための装置として、
さらに普遍的な指導原理が必要となり、
ある地域には古代宗教から有史宗教へと変革を遂げたものもあった。
この変革の結果、歴史は、単なる集団の正当化から脱皮して、
客観的な記述に基づいた、現実世界の共時的、通時的な理解のための方法
として重要視されることとなった。

人間が地球上の他の生物と異なる点は、
事象をシンボル化し、言語を用いて記述することによって、
時間と空間を越えて知識を共有できる、ということである。
社会が継続して知識の集積に努力することは、
それぞれの時点での人間の自己理解に対するささやかな援助となる。

村上氏の書物における、歴史方法論の論点として、
1)共時的分析と通時的分析の相補性の問題
2)通時的変化の自足的単位の問題
3)思想的ないし文化的要因の問題
4)思想の担い手の問題
があげられている。

2007年8月29日水曜日

歴史観について

和辻哲郎の鎖国について、先に解説や、文明の海洋史観の説明を読んでいると、
「鎖国」が戦後まもなく書かれた書物で、
敗戦時の知識層の西洋文明に対する劣等感のようなものを引きずっているように感じられて、
そのまま読むとそうした歪みを受け取ってしまいそうな気がした。

では、歴史とはいかなる形で理解するべきだろうか?
西洋由来の歴史は、19世紀から20世紀にかけて、
西洋文明を最も発展したものとし、近代西洋に至る道への単一の道のりを規定するものだったように見受けられる。
20世紀後半になって、このような無批判な発展史観は退けれるようになったと思われるが、
ここでは、
文明の多系史観(http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%9A%E7%B3%BB%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E2%80%95%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E5%86%8D%E8%A7%A3%E9%87%88%E3%81%AE%E8%A9%A6%E3%81%BF-%E6%9D%91%E4%B8%8A-%E6%B3%B0%E4%BA%AE/dp/412002816X)の内容をまとめて、歴史の理解の仕方を学んでみたい。

八丈島旅行その10

8/21 八丈島3日目
八丈富士への登山と、B&Bでのライブ鑑賞の予定。

八丈富士は八丈島の北側にそびえる火山で、標高約800メートル。
途中にふれあい牧場という乳牛を飼っている牧場があり、
牛乳目当ての観光客も多い。

ということで、自転車で牧場まで行ってみようとした。
8:00に民宿を出て登山道を登り始めたのだが、
当然自転車をひきづり徒歩で登ることになった。
足ががくがくとし、いけどもいけども道は続いていた。
水分補給に、とスポーツドリンクを持っていったのだけれど、
途中ですべて飲み果たし、
5合目くらいで息も絶え絶え、
ガードレールにつかまって10分に一回、5分の休憩。
何台か車がらくらくと追い抜いていった。
その中には、民宿で顔をあわせていた家族連れ、社会人組の姿もあり、
エールを送ってくれたようだが、とてもそれを受け取る余裕はなかった。

9:30、ようやくふれあい牧場に着いた。
早速スポーツドリンク、牛乳を飲み、タオルを水で浸して頭からかぶせた。
ここで飼われている牛は名札に名前が書いてあって、
観光客は名前を呼んで楽しんでいた。
江戸時代、飢饉の折には牛食いといって、牛を食べることもあったようだが、
その頃までの日本における獣食に対するタブーが何故存在していたのか、
不思議でならなかった。
30分ほど、和やかな牛たちを眺めていると、
恐ろしいことに頂上まで行ってみようか、という心がめらめらと湧いてきた。
頂上はここからさらに1280段、階段を登ったところに火口があり、
そこからさらに山稜をめぐるとたどり着ける。
らくらくウォーキングコースということで、
行くべきか行かざるべきか悩んでいたのだが、
そもそも、自転車でここまで来る人は私のほかに誰もいなかった。
皆自動車でらくらくとここまでやってきて、その後登山をしているのだから、
肉体疲労は比較もできなかった。

10:30、スポーツドリンクを手に持って、自転車を牧場において火口に向かった。
階段を100段ほど登った所で後から来たグループに追い抜かれた。
私はプレッシャーに弱いので、後ろに人がいると気持ち悪い、
だから先に行ってもらったほうが好都合、
と自分に納得できる理由をつけてみるが、
体力不足を露呈しているようで恥ずかしかった。
だが、幸いなことに追い抜いたグループは女性3人組。
その後を追っていると、不思議なことに遅れないようについていけるのだった。
登山道はコンクリで固めた階段とてすりがあり、
最初は木々に囲まれているが、途中から高山植物に変わり、
眺めが非常に良かった。
青い羽の蝶、七色のカナブンが飛び回り、
下には八丈の真っ青な海が広がっていた。

11:30、なんとか火口がみえるところまできた。
遠くに山頂を示す印が見えたが、そこに至る道は山稜の荒涼とした道だった。
うっすらと霧が拡がり視界が狭くなった。
前方の女性組は元気に山頂に向かっているが、
私は途中で断念し、しばし休憩。
女性組が元気に帰還するのを尻目に、私はへろへろになりながら、
後を追うようにして下山したのだった。

ふれあい牧場からは自転車。
行きは上り坂のみだったので、帰りは下り坂のみ。
ブレーキを握る左手が疲れた。
700メートルを10分くらいで滑降し、
降りてきたらすでに13:00を大分過ぎていた。

近所の食堂で、刺身定食とくさやを食べた。
くさやは、
年貢として米の代わりに塩を納めていたために島内での塩の利用は制限され、
魚をつける塩汁をくり返し使用したことに由来するそうだ。
この話を聞くと、農民が白米を食べることが出来なかった、という話とオーバーラップし、
商品経済、ということに感慨を持つ。
現在も八丈島にフェニックスは多数生えているが、島内で実際に観葉植物として利用しているところはない。

午後、海水浴。
底土港のほうにいくと、家族連れ、カップル、女性客、
思い思いの人たちが楽しんでいて、
私も火照った体を覚まして目の保養。

夜、B&Bでライブ。
堀江真美、という人が歌う。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31893725
という著書もあるそうだが、釣りの関係で八丈島にしばしば来島するようになったとのこと。
人口8000人の島で100人の大人が参加するイベントは少ない、
と同じテーブルに誘ってくださった方が感慨深げに語っていた。
半月が薄雲に隠れ、八丈島にスタンダードナンバーが鳴り響いた。
私も含め、観客は皆、シャイで、ライブになれておらず、
一緒に歌って、とステージから呼びかけられても反応なし。
歌手も大変だ、と思いながらも、芸達者でない私にはどうすることもできず。

かくして八丈島の夜は更けた。

2007年8月28日火曜日

八丈島旅行その9

八丈島の流人の歴史は、
宇喜多秀家が流されたことに始まった。
以来江戸時代を通じて、多くの流刑者が島に流され、
ある者は安らかな生涯を終えて八丈島の土と成り、
ある者は騒擾の中に処分され、
ある者は島からの脱出を試み黒潮の流れに飲まれた。
総数2000弱。

遠島は、死罪に次ぐ重罪であって、流刑地の中でも八丈島は遠方にあった。
遠島が処罰であることの最大の証左は、
流刑者は一切の支給もなく、
島で自給自足の生活を自らの才覚で行わなければならない点にあった。

流刑者の大まかな時系列ごとの分類によると、
江戸初期-中期は、主として政治犯、思想犯が少数流されてくる傾向にあり、
中期-後期においては、雑多な犯罪人が多数流されてきた。
これは、
サツマイモの増産による食糧事情の向上、
社会不安による犯罪者の増大とその流刑地不足
によるものと思われる。

流刑者の中には、八丈島で所帯を持ち、その子孫が現在に至っていることも数多いようだ。
ただし、犯罪者ということで公的な婚姻は認められておらず、
万が一恩赦で本土に戻った場合など、問題も生じたようだ。

果たして自分がここに流されてきたとしたら、
一体どのようにして生き延びられたのだろうか?
仮に大工であれば、島の建物の修繕をして日々の糧を得ることもできよう、
農学者であれば、島にあった作物の栽培を広めることもできよう。
しかし、手に何の職もなく、食いつぶして田舎から江戸に出てきたものの、
結局島流しの身になったものであれば、
それほどな知識も技術も持ち合わせていなかっただろう。
田畑を持つわけでもなく、漁業にいそしむこともできず、
ただ人の良い島人の助けを待つ毎日。
飢饉でも起こればたちまち餓死せざるをえない弱者の境遇。
救いのない毎日の中で、
果たして贖罪などできたのだろうか?
それとも、ひたすら赦免を待ち侘びて、気でも狂わしてしまったであろうか?

明治初頭、江戸時代の島流しの罪がすべて赦免され、
八丈島の流人もほとんどが赦された。
その際、人口8000人のうち150人近い流人がいたという。
島はそれだけの人数を迎え、維持できるだけの体力を持ち合わせていたのだった。
そして、それだけの犯罪者を抱えながら社会秩序が維持できるだけの強権を
島の支配者層は保持していたのだった。

昨日見た、海岸に打ち棄てられていた船は、
流人たちが脱走を試みて、本土目指して漕ぎ出そうとした船だった。
江戸時代を通じて、八丈島からの脱走の成功例はわずかに一つ。
それも、本州で捕縛され処刑されてしまった。
脱走の事実を基にして映画も作られている。(http://runin.jp/index2.html)

ビジターセンターを出て植物園を回っている間も、
流人という生々しい事実の記録がしばらく頭から離れなかった。
東京にも少年院や刑務所は郊外に存在して、その場所も認知されているのにもかかわらず、
島流し、という語幹は強い。
さらに、遠島の理由で、生類憐みの令違反といったものが散見されていたため、
人生の紆余曲折というものに、なおさら思いをはせることとなった。

植物園から戻ると、
昼ごはんに食堂で甲子園の放送を見ながら醤油味のラーメンを食べ、
島一番のスーパーで水着を買い、
民宿近くの神湊で海水浴をした。
漁船が平穏に入港する傍で、青空を仰ぎ波間に浮かんだ。
体が冷えるとB&Bに行き、ホットコーヒーを飲み、
ヤギのヤギオ君と戯れた。
極めて平和な、観光客の日常。

八丈島旅行その8

先の八丈島の歴史のページ(http://ao.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm)
には、
「 それほど時間を置かず、第二回目の八重根人が渡島する。やはり伊豆半島、神奈川県海岸部の古墳時代人(1,500年前頃) である。彼らはこの八重根集落に本格的な「鰹加工工場」を建設し、地元の粘土を使用して多量の煮沸用鉢形土器(八重根式とも呼ばれる)を製作した。炉跡も各種考案され、100基近い炉から煙が立ち上がっていた。第三回目の八重根人の渡島は、奈良・平安時代である。引き続き鰹加工工場を運営している(第2文化層) 。
 中世以降の八丈島は、相模の国(小田原北条氏)の支配地として、国地の封建社会に組み込まれていく。もはや鰹加工工場ではなく、貢納物としての絹織物(黄八丈)生産地として重要な地位を与えられる島になっていた(第 3文化層) 。」
「 平安時代に近畿地方の伊勢湾あたりから、八丈島に渡島した製塩集団がいた。彼らは八丈小島が前面に見える、西山(八丈富士)側海岸に集落を形成した。この場所は火の潟と呼ばれ、やや緩やかな山麓部に独立小丘が海岸に張り出し、この平坦部に多くの製塩施設が構築されている。製塩用の土器は地元八丈島で製作され、海岸から塩水を汲み上げてはこの土器に入れて、地炉で煮ることで塩分を凝縮し塩を生産していた。」
という二つのコメントがある。
稲作に不適な八丈島において、人々の暮らしは加工物の交易に頼っていた。
歴史資料館には、黄八丈や製塩など加工物のための機材の展示もなされていた。

古代から中世にかけての八丈島の歴史について、
文章としての説明は極めて少なかった。
八丈島の、島としての歴史が物語られるのは、
江戸時代に、島流しの地となってからのことが多い。
これは、江戸時代以降のほうが資料が豊富である、ということと、
流人という人間ドラマが興味を引きやすかったからなのだろう。

八丈島の流人については、歴史資料館の次に訪れたビジターセンターに、
八丈島流人銘々伝(http://www.kt.rim.or.jp/~dai-1/shinkan/shokai/85.html)
がおいてあり、閲覧させていただいた。

2007年8月26日日曜日

日本の歴史ノートその1

網野善彦
日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫) (文庫)

(ttp://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8A%E3%81%99-%E5%85%A8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%B6%B2%E9%87%8E-%E5%96%84%E5%BD%A6/dp/4480089292)
のなかの、
海からみた日本列島、
の章に関するノート。

「 まず、海によって周囲から隔てられた島々というのは、ことの一面のみをとらえた見方です。たしかに海が人と人とを隔てる障壁の役割をすることのあるのは、もとより事実ですが、しかし、それは海の一面で、海は逆に人と人とを結ぶ柔軟な交通路として、きわめて重要な役割を果たしていたことも間違いありません。」

*縄文時代

「 いずれにせよ、いままでわれわれが教えられてきたように、縄文文化が「島国」の中に孤立した文化であったとする見方は、完全に誤りであることが明らかになってきました。」
「 縄文時代をそのように多様な生業に支えられ、広域的なつながりを持った社会と考えておかないと、その後の文化、社会を正確に理解することはできないと思います。」

*弥生時代

「 弥生文化は、本来海をこえてきた文化であり、海や川を通じて広がったことは明らかです。ですから弥生文化をもたらした人々は、元来、海に深いかかわりがあり、船を駆使するすぐれた航海の技術をもった人々であったと考えられます。また、弥生時代になっても大きな貝塚があるわけですから、漁撈、製塩、狩猟、採集も依然として行われているわけですし、弥生時代は、はじめから海を視野に入れないと、理解しがたい文化であることも強調しておく必要があると思います。」

「 このように、日本列島の社会は当初から公益を行うことによってはじめて成り立ちうる社会だった、厳密に考えれば「自給自足」の社会など、最初から考えがたいといってよいと私は思います。」
この文章は、鎖国時に自給自足体制を整えていたと考えられる点と非常に対比的であると思う。
稲作が伝達して、弥生時代の人口は爆発的に増大したと考えられているが、
海、川を通じた交易の必要性が失われたわけではない。むしろ、稲作に不適な土地が大部分を占めている地域は、それまでの縄文文化による暮らしと、交易による暮らしとが混在していたのだろう。
では、市場はいかなる形であったのか?

「 さらに、倭人伝の中には、「国々に市あり。有無を交易す。」という記事が出てきます。この「国」はのちの郡の程度、あるいはもう少し小さな単位だと考えられますが、すでにそうした地域に市庭が立っているわけで、交易の場がいかに重要であったかがよくわかります。こうした市庭なしに社会は成り立ちえなかったのです。」
「 山民と海民との間の分業は、縄文期には成立しており、弥生時代には平地民との間にも分業が確立したと考えられますから、縄文期の塩や魚貝、あるいは石器の原料などの交易を媒介としていた原初的な商業活動は、弥生期以降さらに活発かつ広域的になったと考えられます。まだ、専業の商人ではなく、生産者が広い地域を動いて交易に従事するのが普通だったと思いますが、それを支えたこの時期の交通の基本が海、川による交通であったことは、遺跡、遺物の分布をみてもはっきりとわかります。」

交易によって、文化が伝播し均質化されてくるのだとしても、
地理的な障壁による伝達阻害は大きく、東部と西部との間の文化的ギャップはなかなか埋まっていかない。この点について、
「 これまでの日本文化論・日本社会論は、朝鮮半島、中国大陸から主として北九州を窓口として先進的な文化、技術が入ってきて、それが瀬戸内海から近畿に入り、西から「後進的」な東に広がっていったとされ、こうしたあり方が日本列島の社会のその後の歩みに決定的な影響をあたえたととらえてきたのですが、この見方を徹底的にあたらめる必要があります。北東アジアからサハリン・北海道を経て東北・関東へ、あるいは日本海を横断して北陸、山陰へという、西からの文化とは異質な北からの文化の流入路のあったことに注目する必要があり、この異質な東と西の交流の中で、社会・文化のあり方を総合的にとらえる必要があります。」

* 古墳時代

「 とくに製鉄と馬が、この時期に流入した文化の中で一番大きな意味を持っていたといわれており、「騎馬民族」の渡来が問題になるのは、まさにこの時期です。」
「 事実、弥生時代から古墳時代を通じて、相当の数の人が大陸・半島から列島西部に流入したようで、それも一万、二万の程度ではなく、長い時間、約一千年の間に数十万人から百万人以上といってもよいほど多くの人がわたってきたと考えなければ理解できないことが多いと、埴原和郎さんは強調されています。」
こうした人口増大、体制の整備のもと弥生時代から古墳時代にかけて交易はさらに緊密なものとなった。
「 しかしそうしたヤマトと諸地域との関係だけでなく、さきほどもふれた諸地域の間の独自の交易が、広域的に行われていたことを決して見落としてはなりません。」
ではどのようなルートがあったか?
「 しかもヤマトの王権は朝鮮半島の百済と手を結び、磐井は新羅と同盟を結んで対立したわけで、この戦争も日本列島内だけにとどまっていません。列島内の王権の対立が朝鮮半島の王権の対立と結びつきながら戦争が行われているのです。これは、瀬戸内海から北九州を経て、朝鮮半島、中国大陸への緊密な交通ルートのあることを前提にしなくては理解できないことです。」
「 また日本海についても、山陰から北陸、東北、北海道に向かう海上交通のルートが、この時期にはきわめて活発になっていたと思われます。」
「 また太平洋側も、海の難所が多いといわれますが、意外なほど早くから海上交通が活発だったのです。」
「 このように、海で四方にひらかれた日本列島の社会は、つねに周囲の地域との交流関係の中で考えることが必要なのです。」

交易の手段については、
「 原始的な貨幣はこの時期にはっきりと姿を見せているのです。もちろん多様な物品貨幣を、交換手段、支払手段、価値尺度として使うということですが、これを貨幣経済ということも決して無理ではないと思います。
 貨幣の発生についてはいろいろな議論がありますが、この時期、交換手段として使われたと推定できる物品は、列島西部では主として米だと思いますし、列島東部では布と絹がおもに用いられたと思います。」
「 そのほか、塩、鉄、牛馬も、貨幣の機能を持ったことがあります。」

* 「日本国」の誕生
「 さて、七世紀後半から八世紀初頭にかけて、ヤマトといわれたのちの畿内を中心として、東北と、南九州をのぞいた本州、四国、九州を支配下に入れた本格的な国家が、初めて列島に成立することになります。」
「 実際、この国家、「日本国」が確立すると、これまでとは、ようすがガラッと変わってきます。この国家の支配層が、とくに六世紀以降の中国大陸や朝鮮半島との交流を前提にして、初めて本格的な「文明」を体系的に日本列島に持ち込みます。中国大陸に成立した大帝国、唐の制度を本格的に導入したのです。
 当時の日本列島の社会は、まだかなり「未開」であり、逆に柔軟な社会だったと思うのですが、そこにきわめて硬質な中国大陸の文明的制度が受けいれられることになりました。」

「 ...とくに注意すべきは、この国家の交通体系が陸上交通を基本にしていることで、都を中心にして幅十数メートルの舗装された道路をできるだけ真っ直ぐにつくっているのです。
 東海、東山、北陸道は東に、山陰、山陽道が西に、南海道が南に、都から四方にそうした直線的な道路がつくられ、それを軸に広域的な地方制度としての道ができているわけです。九州だけは大宰府を中心にした西海道になっていますが、このような直線的な道を基盤にした陸上交通が、この国家の交通の基本になります。」

陸上輸送の重視に関しては、明治期の徹底した鉄道輸送の普及と対比してみると面白い。
日本、という国が建国当初において外圧にさらされて、富国強兵に努める必要があった、
という背景が明治期と類似している。
一方で、
「 そして、この国家の諸制度の基本にあるのは農本主義で、「農は天下の本」、「農は国の本」ということがくり返し強調されています。水田を基礎にした租税制度をとっている以上、これは当然のことで、このような儒教を背景にした農本主義的な文明が、畿内を中心に西日本を主要な基盤とするこの国家の制度を通して、日本列島の社会に対して、強い影響をおよぼすようになってきます。」
農本主義と聞いてまっさきに思い浮かべるのが、江戸時代の米に基盤を置いた農本主義であるが、
この時代の農本主義は国家としての体裁を取り繕うための擬態だったのだろうか?
建国当時、日本は、白村江の戦いで負けた実質的な敗戦国であり、
文化は流入しながらも、朝鮮、中国との国交を一からやり直している。
農が当時の最新技術であったと理解すれば、この時代の農本主義は富国政策、ということになるのだろうか?

「 ...八、九世紀の日本国の範囲は、北は東北北部を境界地帯としており、南は喜界島までと考えられます。
 その範囲の日本列島の社会にたいして、この国家が実施した諸制度はみな、八世紀にはいるとすぐにあやしくなりはじめ、とくに陸上交通中心の交通制度の無理がいちはやく表面化し、八世紀前半には、重いものを運ぶための川と海の交通が公的に認められはじめます。」
「 また、この国家ができるころは、遣唐使などによる中国大陸との国家間の交流が活発に行われていましたが、これも九世紀になると間遠になり、むしろ国家とかかわらない列島と大陸、半島との交流がふたたび表に出てきます。」

「 さて九世紀から十世紀になりますと、事態はさらに大きく変わってしまいます。というのは、さきの国家の制度は、形式は残っていますが、九世紀にはほとんど実質がなくなり、十世紀前半には、それ以前とはまったく異質な制度になってしまったからです。」

八丈島旅行その7

8/20 八丈島2日目。

自転車で八重根に向かった。
歴史資料館、ビジターセンター、植物園、
と巡る予定で、坂を必死に昇っていった。
民宿のある辺りは海の近くだから、海抜0メートル。
八重根への道の途中で海抜30メートルとか50メートルとかの標識が結構出ていたので、
かなりのアップダウンがあり、距離はたいしたことないのに脚がぱんぱんになった。

八重根は底土の反対側、島の西側の港で、
テトラポットに容赦なく波が打ち付けてきていた。
波の様子を眺めていると、大体一分に一回くらいの割合で高い波が押し寄せてきて、
その白い波が引いていくと、セルリアンブルーの綺麗な水の色が波間に見えた。

http://www.agri.pref.kanagawa.jp/SUISOKEN/Kaikyozu/1to3ken.asp
をみると、黒潮の流れが八丈島の南側を流れている。
さらに、
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/qboc/2007cal/ocf/ocf200734.html
をみると、
黒潮は南西諸島から四国、和歌山の沖合いを流れた後に八丈島の沖合いを流れている。
補陀落渡海を目指した行者のなかには沖縄にたどり着いたものもいた由だが、
あるいは、黒潮に乗って八丈島に流されたものもいたのかもしれない。
八丈島の西側は、黒潮ルートのいわば玄関口なのだろうか?

そんなことを考えつつ歴史資料館を探していると、
どうやら迷ってしまったらしかった。
よくわからないので、近くのパン屋さんで栄養補給、兼、道を確認。
無事歴史資料館に辿りついた。

およそ離島にわざわざ人がやってくるためには、
a)満ち足りた人々の征服
b)食いつぶした集団の開拓
c)漂着
d)特産品を基にした商業目的
のどれかの理由が必要だろうし、
その後継続して離島に住み続けるためには、
-水
-最低限の食料
が必要だろうし、
その中で文化が成熟するためには、
最低限の他地域との交流が必要だろう。

果たして、八丈島の歴史はどのようなものなのだろうか、と
いろいろな展示物を見てみた。
http://ao.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm
にあるように、先史時代、八丈島の西側に定住者がいたようだ。
伊豆諸島では神津島が石器で使用される黒曜石の採掘場として、
縄文時代からすでに本土と交流があったようだが、
八丈島にもこの黒曜石の石器があり、本土もしくは北側の島々からの移住者が、
八丈島で生活をしていた、とのこと。

一体何が人々を八丈島にいざなったのだろうか?
八丈富士があげていた噴煙が目印となって、
まだ溶岩の流れている島に上陸してきたのだろうか?

先ほどのページの倉輪人の説明によると、
最終的には、ほんの数人ほどの集団が、ここで生活し、そして食いつぶしたのか何らかの理由で離れていった。
先史時代でも人間の時間感覚はそうはかわらないだろう。
今、我々は先史時代を1000年単位、ひどいときには10000年単位で区切ったりするが、
個々の寿命は多分10-20才位で、10年一昔どころではない時代。
人口が減少していく中、彼らは何年ほどここで耐えて生活していたのだろうか?
家族として代替わりができたのだろうか、それとも男だけがここで出稼ぎのようにして生活していたのだろうか?

http://dandoweb.com/backno/970619.htm
をみると、縄文時代の推計人口が早期2万人、中期26万人、末期7万人
と大きく変動している、と予測されている。
八丈島も、この人口変化に連動するようにして、縄文末期には無人島と成り果ててしまったのだろうか?

八丈島旅行その6

観光協会でもらった地図を頼りに、自転車で近所をうろついてみた。

道はなだらかな斜面になっていて、平らなところは殆どなかった。
学生時代以来の自転車で、
登り坂は脚力がないので降りて引きずっていき、
下り坂は、坂が急だとスピードが出るのが怖いのでやはり降りて引きずっていった。
体力について問われた理由が納得できた。

民宿から海沿いにくだると、
垂土港という主に漁業関係者が利用する港があった。
この港の内側に家族連れの海水浴客が少数いて、
浮き輪やらボートやら思い思いに水面に揺れて、
シュノーケルをつけて底を探る人も居た。

垂土港から底土港のほうにむかって大きな道が広がっていて、
坂も急ではなく、
殆ど自動車の来ない整備された道を自転車で一人進んでいくのは爽快だった。

途中、抜け船のあと、という古い船が転がっている箇所があった。
これについては後日歴史資料館で確認をしようと心に留め、
さらに先へ行くと、右側に不穏な建物がそびえていた。

西洋風の建築にどこか派手な中国色が混じった
オリエンタルリゾート、という看板が半ばはげ欠けていて、
雑草が入り口に生い茂っていた。
およそ開店しているとは思えなかったのだが、
http://y.gnavi.co.jp/106222/
をみると、つぶれてはいないようだった。

近所のB&Bという誰もいないように見えるレストランに入って、
様子を伺ってみた。
ビアホールを兼ねているのかちょうちんの飾り付けがあり、
テーブルと椅子が10卓ほど庭にでていた。
その先に、何故かヤギが繋がれていて、黙々と草を食んでいた。
店には客は私以外は居らず、
店長が奥に、カウンターに女性店員が一人。
パッションフルーツジュースを頼んで、女性店員に八丈島のお勧めスポットを聞いてみた。

聞けば、女性店員は千葉の人で夏だけアルバイトに来ているらしい。
一年前に八丈島に来て、気に入ってしまい、今年は趣味と実益を兼ねてのアルバイトだそうだ。
一年前の宿泊地は先ほどのオリエンタルリゾートだったそうで、
そこは香港系の経営者が自分の好きなようにデコレーションをしていて、
内部の装飾はそれはそれはものすごかったそうだ。
8/21にライブがある、とのことでチケットを買って店を出た。

底土港のほうから下って、民宿に戻った。
シャワーを浴びて、食事の時間。
私のほかに宿泊客は、家族4人が一組、家族5人が一組、カップルが一組。
民宿なので、食堂で顔をつき合わせての食事。
宿泊客の中に釣り人がいて釣果がよかったらしく、お刺身とお吸い物が豪華だった。

早めの就寝。

八丈島旅行その5

八丈島は、二つの火山がくっついたひょうたんの形をしていて、
底土港はひょうたんのすぼまっている部分の東側に位置している。
西側にも港はあり、八重根港というらしい。
海上、風の状態によっては底土港ではなく八重根港にかめりあ丸が寄港することもあるそうだ。

コンクリートを打ち付けて作った岸壁に船は接岸され、
ネクタイを締めた船員が、厳かに港から突き出された通路へのドアを開けた。
港に照りつける太陽は強く、すこし潮気を含んだ空気は東京ほどに湿っぽくはなかった。
八丈島観光協会の人が柔和な態度で上陸した観光客の案内をし、
小さな港ゆえ出口にはホテル、旅館、レンタカーの案内人が送迎に来ていた。

私が予約していた宿泊施設は、小崎荘という民宿で、
あらかじめ下調べをしていたときに
http://www.awaremi-tai.com/aware/aware067-06.htm
の、
「おばあちゃんだけの宿かと思ったが、GW中で宿泊客が多いということもあってお手伝いの女の子がいた。親戚だそうで、聞くと高校生だという。この女の子が凄く純粋で、親切で、感心してしまった。「八丈島で育つと性格が良くなるのかねえ」と聞いてみたら、昨年まで東京に居たんだという。親が実家のくさや工場を継ぐために八丈島に戻ってきたんだと。」
という一文をみて、この民宿に決めたのだった。
こういう女の子が居れば私も八丈島で"伊豆の踊り子"が理解できるかもしれない、
という若干の期待に満ち溢れた選択だった。

実際に迎えに来てくれたのは、案の定おばあさんで、
かなりお年を召した車での出迎えだった。
宿泊中の移動手段としてレンタサイクルを借りようと思っている、
と切り出すと、
体力に自信ある?と挑戦的な返答が返ってきた。
天邪鬼な私は、この挑戦は受けざるを得ない、と、
小崎荘の前にレンタサイクルに寄ってほしい、とお願いした。

レンタサイクルは需要があまりないらしい。
よって値段もかなり強気で、一日2100円となっている。
3泊の私は6300円を払って自転車を借りることになった。
(物の値段に疎い私は、帰京後、近所のスーパーで自転車の値段を見たときに複雑な思いとなってしまった。)
レンタサイクルのおじさん曰く、
「体力に自信ある?マウンテンバイクのほうがいいよね?
ちょっと待って、籠のあるほうがいいか。
でも、籠のあるほうの自転車は変速機は昨日壊れていたのを修理したんだ。
変速がうまくいかないかもしれない。」
と、いろいろ恐ろしい言葉を投げかけてくれた。
もしかすると、自転車の選択は間違いだったのかもしれない、
とうすうす感じながらももはや引き返すことも出来ず、
この自転車を借りて小崎荘へと向かったのだった。

レンタサイクルショップは、三根という、八丈島一番の繁華街にあり、
小崎荘は、メインストリートを南に一直線に下ったところにあった。
途中、釣り船屋、くさや工場、などが散見された。

時刻は12時ちかくになっていたが、
船の中でほとんど睡眠をとっていなかったこともあって、
部屋で仮眠を取りたかった。

小崎荘に辿りついて、玄関で声をかけると、
小学生くらいの子が出てきて、
「お手伝いさんがいるからそっちに声をかけて。」
とのこと。
期待してお手伝いさんを探すと、
年の頃は50代の妙齢のお嬢さんだった。

部屋に案内してもらって、すこし落胆しながら仮眠。

再び起きた時には、もう太陽は西に傾いていて、
部屋に差し込む光は赤みを帯びていた。

2007年8月25日土曜日

八丈島旅行その4

午前五時の船のデッキに人影は殆ど見られなかった。
太陽が水平線から徐々に上がっていき、薄い雲に隠れてしまうと、
船は三宅島へと向かった。

かめりあ丸は八丈島に向かう途中で、三宅島、御蔵島の二つの島に立ち寄る。
だが、天候の関係もあり、場合によっては島の近くを通り過ぎるだけ、ということもある。
だから、この二つの島を目的地としている旅行者は、目的地に無事到着できるか、
船内放送に戦々恐々としているのだった。

三宅島が目前に迫る頃、
船内放送は、三宅島には予定通り到着、御蔵島は天候不順のため立ち寄らず、
と告げた。
デッキには女性が一人、熱心に三宅島の桟橋を眺めていたが、
聞くと、目的地は御蔵島だと言う。
欠航で残念ですね、というと、
午後の便に期待します、とのこと。
かめりあ丸は八丈島に着くと一時間後にすぐに東京に向けて折り返すが、
その際に御蔵島に立ち寄る予定なので、そうしたこともできるのだった。
だが、天候不順が続けばまたも虚しく島を通り過ぎることにもなる。
若いが相当の島マニアのように見受けられた。

御蔵島を過ぎて、鳥の群れもいつの間にか姿を消して、
周囲は見渡す限り水平線。
空と海と雲と太陽だけが存在する世界になった。
この感覚を求めていたのだ、と内心感嘆しながらも、単調な世界にすぐ飽きが来て、
船内に戻り仮眠を取った。

午前9時、船は予定通り八丈島底土港に到着した。

2007年8月24日金曜日

"勤勉革命"について

文明の海洋史観の中に出てきた、"勤勉革命"という用語については、
もう少し掘り下げて理解する必要があると思われる。
なにより、もともとの動機であるソフトウェア産業従事者の生産性、
について理解するためのキーワードのような気がする。

とくに日本が強いとされている組み込みソフトウェア分野は、
希少な資源のもとでの簡潔な動作、
を制約としている。
近世江戸社会の資源に対する制約との類似が一見して感じられた。

"勤勉革命"で、検索をしてみると、以下のページが見つかった。
- http://www.ruralnet.or.jp/syutyo/1998/199810.htm
 江戸期の農業に関するページ
- http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/ishida-2.html
 「勤勉・誠実・正直」の精神を説く、石田梅岩についてのページ
- http://ocw.dmc.keio.ac.jp/j/meikougi/Prof_Hayami_resume.pdf
 勤勉革命の言葉を提唱した速水氏の講義の自己採点。この中で勤勉革命を
 「一方、「勤勉革命」とは、経済社会の展開の過程で、生産量の増大を専ら労働力によって実現しようとする方向で、長時間労働、激しい労働、機械力を伴わない工夫などが相当する。日本の江戸時代は、まさにこの「勤勉革命」によって生産量が増大した。そこでは「勤勉」が道徳的に善とされ、それを引き継いだ戦前の教育では、神格化された二宮金次郎の像が、各公立小学校の校庭に建てられていた。勤勉革命(industrious revolution)という概念は、産業革命(industrial revolution)に対置する概念として国際的にも使われるようになっている。」
 と説明されている。

勤勉、という言葉に関しては、率直に言って、個人的に恐怖と喪失感を感じる。
ソフトウェア業界においては、如何に効率よくサボるか、がかなり重要な点を占めている。
自動でやれることはコンピュータに任せて、本当に人間がやらなければならないところに重点を置く、
ということが、ソフトウェア業界における美徳とされている。
だが、実際の開発現場では、多かれ少なかれ、本来機械に任せるべきことを人海戦術で人間が行う、ということも多数行われている。
例えば、民生品の品質保証のための回帰テスト。
個人的にはほとんどの回帰テストは本来機械による自動化がなされるべきであると思っているが、
日本においては、そのような動きは少ない。
多くのテスターが手動で決められた手順による試験を何度も繰り返している。
勤勉は美徳、という精神がどこかに怨霊のように住み付いている様な気がするのである。

今までは、人海戦術に頼る開発手法のおかげで日本のソフトウェア産業従事者の需要が増大していたのは、紛れもない事実だった。
だが、オフショア開発というコスト削減の選択肢(これは依頼先に対して勤勉性、生産性のどちらに比重をおくのか、ということについては問わず、ただ結果だけを求める)
が浮かび上がってきた現在、ソフトウェア産業従事者の勤勉について、今までのような楽観は許されなくなった。
これは、明治の脱亜入欧期に勤勉革命から産業革命の導入を強いられた、という点と類似するのではないか?

文明の海洋史観ノートその1

文明の海洋史観 序の部分の記載事項について、ノート

* 「そこで1450-1640年という時期に注目してみよう。近代世界システムの成立時期は、日本では近世江戸社会の成立時期にあたっている」

*「近世成立期のヨーロッパは大航海時代であるが、同じ頃、日本人も海外に雄飛していた。進出の舞台はアジアの海である。日本人はそこを天竺・南蛮と呼び、ヨーロッパ人は東インドと呼んだ。両者は近世成立期の海洋アジアという同じ時空を共有していたのである。注目すべきことは、日本と海洋アジアの関係と、ヨーロッパと海洋アジアとの関係とが酷似していたことである。」
日本が歴史上、島国として孤立していたのではなく、
海洋志向の時代と内地志向の時代を交互に繰り返していた、という認識が必要になる。
この点は、転の章に記載がある。
では、何が海洋志向に向かわせ、何が内地志向に向かわせたのか?

*「日本人とヨーロッパ人とは近世成立期に同じ時空を経験した。それにもかかわらず、だれしも不思議に思うのは、その後の歴史の歩みが正反対になったことである。日本人は活動の舞台を国内に閉じ、ヨーロッパ人は活動の舞台を世界大に広げた。一方は内向き志向に、他方は外向き志向になった。この対照的な相違はなぜ生じたのであろうか?ここに日本の江戸社会の謎を解く鍵があるように思われる。」
この後、共通点と相違点が列挙されている。ここで鍵になるのは生産革命、という言葉であり、
とくに日本の生産革命として現れる"勤勉革命"という用語である。

共通点-1)日本、ヨーロッパとも旧アジア文明から見て周辺に位置する後進地域であり、貿易赤字を持っていた。
共通点-2)19世紀に貿易赤字を解消。ヨーロッパは大西洋三角貿易により、日本は国内で自給自足の方法をとることにより。
共通点-3)貿易赤字の解消のために生産革命を遂げた。ヨーロッパは産業革命を、日本は勤勉革命を遂げた。
共通点-4)旧アジア文明への依存状態から脱却して両者とも自立を遂げた。

相違点-1)ヨーロッパにはアメリカ大陸があったが日本には国内しかなかった。アジアと関係をもったときの土地と労働のありかたが対照的であった。
相違点-2)生産革命の方法が、ヨーロッパの場合は、人口が希少なので、資本集約的方法をとって労働の生産性を上げた。それに対し、日本では徹底的に資本の節約がはかられた。
相違点-3)アジアとの離脱という点で、ヨーロッパは環インド洋にひろがるイスラム文明圏からの自立であり、日本は環シナ海にひろがる中国文明圏からの自立であった。
相違点-4)天然資源に対する態度の相違。ヨーロッパにはアメリカ大陸というフロンティアがあり資源は希少ではなかった。一方、日本では、資本を節約し、資源をリサイクルすることに工夫をこらす必要があった。

*「近世江戸社会と近代世界システムとは、人類史上、生産革命によって、経済社会を形成して脱亜を遂げたという点において、対等の文明史的意義を有するものである。」

八丈島旅行その3

今回八丈島に旅行するにあたって、
文明の海洋史観 川勝平太(http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4120027155/249-4405693-9957113?SubscriptionId=0C36TPSFWRT26YNQJZR2)

鎖国 和辻哲郎
を暇つぶしに読もう、と持参した。

両方とも鎖国に関連する書物であるが、
鎖国に興味を示した原因は二つあった。
1. 学生時代に家庭教師の生徒から、なんで鎖国をしたの?と問われて、
折々、その回答を考えている、という理由。(無論生徒とはもはや音信はなく、私の自己満足でしかない)
2. 前職が携帯電話にかかわる業種であり、日本と海外、両方の携帯電話とその周辺について、見聞する機会があった。
2-a)日本の携帯電話は海外と異なり、独自の発達を遂げたが、
日本で人気の機能は海外では人気がなく、多くのメーカーは海外で収益をあげられなかった、
という事実
2-b)日本における携帯電話のソフトウェア産業従事者の生産性の低さと、その反面の勤勉さ、
そして、採算面からオフショア開発という形で国内のソフトウェア産業従事者の駆逐が始まった、
という事実
この2-a,2-bの二つの事実について、何がしかの気持ちの折り合いをつけたかったのだが、
それぞれ、
a)江戸時代における文化の閉鎖性、
b)農本主義による勤勉性
が対応し、江戸時代のことを考えることによって、現在のことについて何らかの理解が深まるのでは、
という期待。

実際に旅行中にどれほど本を読めるかは不明であったのだけれど、
船旅とあわせて、海洋国家日本と鎖国、というテーマを体感してみようと、
そう思ったのだった。

2007年8月23日木曜日

八丈島旅行その2

八丈島行きの船は22:30に竹芝桟橋を出港し、翌日の9:30に八丈島底土港に到着する。
出港後しばらくすると、すっぽりと暮れた夏の夜の海を、
お台場から羽田沖を通り東京湾を進み、
左手に房総半島、右手に三浦半島の灯りを見ながら、
太平洋へと進んでいく。
三浦半島の灯台を過ぎると、右手には暗闇が広がる。

デッキから潮風を受けて眺めてみると、
三浦半島と房総半島の距離の近さに改めて気づく。
何故房総半島の先が上総で房総半島の根元が下総なのか、納得がいく。
そして、武蔵野国がもともと東山道に属していたにもかかわらず、
何故、総州が東海道に属していたのか、にも。
濃尾平野にせよ、隅田川河口にせよ、
大河が三角州を形作る湿地帯は、近世に至るまで不毛の地であり、
交通路は大河河口を避けての船旅、が一般的であったのだ。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93)

房総半島の灯りが見えなくなると、
漆黒の闇の中を船は進んでいく。
東京湾内よりも揺れが激しくなったような気がした。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/hfradar/kairyu_inform.cgi?mode=anime&which=274,1
をみてみると、潮の流れは一日毎にめまぐるしく変わっている。
伊豆大島から三宅島までは、それでも、船を漕ぎ出してたどり着けるような気もするが、
その先、太平洋に乗り出すには、どれほどの勇気を要したことだろうか?

しばしの仮眠の後、
午前4:30に再びデッキに出てみた。
未だ東の空は暗かった。
いくつかの星が輝いているが、それがどの星座に属するものなのか、
基本的な知識が忘却の彼方にあって判別できなかった。
多分あれは北斗七星なのだろうけど、
でもそうすると北がとんでもない方向になるな、と、
記憶の断片と現実がどうにも噛み合わなかった。
そういえば、シューメーカーレビ彗星が近づいたときにも、
大家さんが、めったにない機会だから見ておきなさい、
と双眼鏡を持ってきて勧めてくれた。
そのときに星座の見方をいくつも教えてくれた気もするけれど、
使わぬ知識は消えゆくばかり。

10分ほどたつとわずかずつに明るくなっていき、
やがて雲間から赤い光が見え始めた。
日の出、だ。
東の空の雲は水平線のちょっと上を薄く延びているばかりで、
遮るもののない一直線の海面から浮き上がってくる太陽を目の当たりに見ることが出来た。
自分のほうに向かって太陽の光が海面を照らし、
放射状に海面が輝く様を仔細に眺めることが出来た。
一生に一度見られるかどうかの贅沢な日の出だった。
インド洋が西に広がるインドで西方浄土という考え方が生まれたのは納得できる。
太平洋が東に広がる日本が日ノ本という国名を外圧に抗する為であろうとつけたのも、
納得がいく。
だが、ちょっと太陽の沖合いに出れば、実際のところは周囲は水平線ばかり。
船乗りたちは命名には携わってはいなかったようだ。

補陀落渡海は熊野や足摺岬での風習だったようだが、
相模や下総にはそのような風習はなかったようだ。
それどころか、日光の二荒山が補陀落山と目されてきた。

どんどん高くなっている太陽とともにデッキの暑さは増していった。
潮風が心地よいのだが、
べっとりとした潮気を含んだ空気と、遮るもののない太陽光に、
亜熱帯の片鱗を感じた。
緯度でいえば八丈島は四国とほぼ同じでそれほど南にあるわけではない。
だからかめりあ丸は瀬戸内海を航海しているのとほぼ同程度の緯度を航海しているだが、
おそらく瀬戸内海クルーズではこれほどの太平洋の熱気を感じることはないだろう。
いつか比較をしてみたいものだ。

八丈島旅行

船旅というものに憧れていた。

学生時代に下宿していた大家さんは、
戦時中に商船学校を出て、戦後ながらく大型船の船長をしていた経歴の持ち主で、
日本丸の華麗さについて、とか、
帆船のマストの数について、
等、おそらくマニアの人であれば喜ぶような話を、食事時にしてくれた。
いかんせん、その当時の私にとって、
船、とは19世紀までの交通機関でありすでに飛行機に取って代わられてしまった、
という認識であったから、話半分で受け流してしまい、
細かなところはまったく記憶に残っていない。

十年ほど前のことだったか、
天保山に帆船が集合した時には、
大家さん、
帆船は見る価値あるから行ってきたほうがいいよ、
と頻りに勧めてくれた。
それもそのはず、その博覧会の理事長的な役目を彼はしていて、
集客にも気を配っていたのだろう。
実際に行ってみたものの、やはり、港に停泊している船に載っただけでは、正直良さがわからなかった。
その後社会人となり、飛行機には出張でお世話になるようになったけれど、
ホイールウォッチングや遊覧船を除いて、
まともな船旅のための船に載る機会はついぞなかった。

風景が一変したのは、辻邦夫の「パリの手記」の最初のほうにある、
日本からフランスへ向けての、東シナ海からマラッカ海峡を通って、
インド、アラビア、地中海をめぐる船旅
の文章を読んだときだった。

ぎらぎらと照りつける太陽の下、見渡す限りの大海原を颯爽と走る船、
その船の中で時間を忘れて退屈に身をゆだねる旅、
に憧れを抱いたのだった。

とはいえ、お金も時間もなかなかままならないままに時間だけがすぎていき、
ようやくこの夏、幾許かの時間が取れた。
時間は取れても、ない袖はふれないので、
なるべく近く、かつ、太平洋の船旅を実感しようと、
候補を小笠原と八丈島に絞った。
小笠原は船で25時間、
八丈島は11時間。
船酔いの懸念と秤にかけた結果、
八丈島への旅行を決意した。

大家さんは大分前に泉下の客となっている。
竹芝桟橋から客船かめりあ丸に乗り込み、
出向の銅鑼の音を聞いた時、
単調な一音が大家さんへの鎮魂歌のように思えた。