2008年1月29日火曜日

言語のミクロとマクロ

生命の定義に、
- 代謝
- 複製
- 進化
の要件を備えるもの、
というものがある。
代謝と複製があれば、進化は複製の過程で起こるエラーとして実現されるので、
必須の条件は代謝と複製
ということになる。

では、代謝と複製はどのように理解されるのだろうか?
ミクロの立場からは、
分子結合を調べることによって理解され、
マクロの立場からは、
細胞を単位とした集合体の振る舞いを調べることによって理解される。

代謝を理解するうえでの鍵は、電子の授受を基本とするATPによるエネルギーの伝達であり、
複製を理解するうえでの鍵は、アミノ酸を基本とするRNA,DNAによるたんぱく質の複製作業
ということになるだろう。

一方、言語について、
我々は、
どのようにミクロとマクロを設定し、
どのように言語の振る舞いを捉えることが出来るだろうか?
力学系としての言語、言語物理学とでもいうべきものが、
存在するのではないか、
という淡い期待があり、
それを記述する言語は、生物数理と根本を同じとする体系として結実しないだろうか?

言語は、それを語る主体が必要であり、
主体の集合体である同一言語を解する共同体が必要である。
この共同体の中で、言語は、
情報を伝達し、その過程で変容を受ける。
言語の使用には揺らぎがあり、
揺らぎは言語特有の変化に対するポテンシャルの上で増幅され、
共同体の中で受け入れられる変化となる。

言語を支える文法構造は、いわば分子結合や触媒を記述したものであるといえるし、
認知言語学に根ざした意味の把握は、たんぱく質に対応するとでもいえようか。

ただ、生命と言語を比べると、
- 言語には共同体内で簡単にわかるような距離がない
- 言語は、叙法や比喩のように現実に存在しない何者かを想起させる不思議な力がある
という違いがある。
インターネットを介した情報伝達をみるとき、物理的な距離は言語に関しては無意味だということが
理解されよう。
また、代謝におけるATPのような基本単位や、その伝達経路について、
何らかの仮定を置くことは難しいように見える。