2007年11月4日日曜日

オフショアについて

ソフトウェアは今後、
-大規模化
-標準化
-投機的実行の増大
の流れを避けられないだろう。

これは、オフショアに出すときには、発注元は十全な準備が必要なことを意味する。

大規模ソフトウェア開発においては、
名前の管理、使用する機能の重複を防ぐための適切な階層管理
が必要となる。
特に名前については、日本は不利である。
オフショアの発注先のほうが英語に慣れている可能性がある上、
発音に対する神経が敏感である。
名前に使用する英単語、とくに専門用語の対応をきちんと辞書化して、
発注元、発注先で使用単語が異ならないようにする必要がある。
また、単語の短縮形は成るだけ用いないほうが無難である。
重複開発を防ぐために、ユーティリティ関数および主要機能のメソッド抽出は
発注元が責任を持って仕様化する必要がある。
その際、仕様作成部隊と設計部隊に齟齬があってはならない。

標準化、はとくにネットワークの使用を前提とする場合は必須である。
標準は短いスパンで揺れ動く可能性があるので、
開発は投機的に行わざるを得ない場合が多い。
リスクを軽減するためには、
市場のビッグプレーヤーとして標準化を独断的に行える立場となるか、
標準化が落ち着くまで待ってから該当ソフトウェアを購入するか、
標準を無視するか、
といった方法があるが、
オフショア先に選択をさせてはならない。

松本にて

子供の頃に、戦争は悲惨で人がたくさん死んだ、
と第2次世界大戦のイメージを植えつけられていたために、
戦国時代というものを多少誤解している感がある。
1500年から1700年にかけて、
日本は大開墾時代で、
人口は増大していた。
兵士が戦場で兵糧を消費して、田畑を荒しても、
それを補って余りある生産増大を達成していた時代、
と認識する必要がある。

だからこそ、
各地に大規模な城郭を建造することが可能だった。

松本城は典型的な平城で、
大手門枡形から眺めるお堀越しの天守は非常に優雅だが、
お堀は極めて浅い。
もともと信濃の国は小豪族が寄り集まっていて、それほど大規模な勢力とはなり得なかったから、
桃山時代における松本城の役割は、
関東の徳川家康への備え、
中央政府の威信の掲揚、
であったのだろう。
徳川家康への押さえとして、石川数正を配置した豊臣秀吉の方針にも苦笑せざるを得ないが、
石川家は端から徳川家に対してそれほど強硬な圧力をかける気はなく、
だから、あまり戦時の城を意識させない優美なお城となったのだろう。

石川家はすぐに途絶え、
その後は変遷を遂げながらも戸田家のものとなる。
江戸時代後期の小藩の貧窮は日暮硯に詳しいが、
松本は小藩ながら、実情は15万石相当の裕福な藩であったそうだ。

幕末を迎え、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、
"藩内180ヶ寺の内140ヶ寺が破壊された。"
とある。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%B8%82)

焼け爛れた仏像、光背を一部切り取ってかくまわれた仏像、
など、生々しい姿を松本市美術館で拝見することが出来たのは幸運だった。

人口の波

中央本線の車中で、
「人口から読む日本の歴史」(鬼頭宏 講談社学術文庫)
を読んだ。
http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1110030.html
にあるグラフの通り、
日本の人口は
紀元前4000年をピークとする縄文時代の人口循環、
弥生時代の稲作普及に始まる波、
14,15世紀の市場経済発達に始まる波、
19世紀の工業化に支えられた波、
の4つの波がある。

興味深かったのは、
慶長年間(1600年前後)に1000万人前後だった人口が
1750年前後に2500万人前後とほぼ3倍弱に増大しているが、
その後は明治に至るまで微増である、
という点と、
1721-1846における国別人口の変化(p96 図4)
に顕著に見られる、
都市による人口増加の阻害、
中国、四国、九州地方の人口増大
という点である。

後者の図を見ると、長州薩摩に幕府が太刀打ちできなかったのは十分納得できる。